
高野山は、平安時代のはじめ、日本が生んだ偉大な聖人、弘法大師によって開かれた日本仏教の一大聖地です。
弘法大師・空海は、国家の安泰、世界の平和、また、修行者のために、人里離れた山奥に、真言密教の根本道場を建立する願いを持っておられました。
その願いが叶い、西暦816年(弘仁7年)に当時の帝・嵯峨天皇より、真言密教の根本道場を開くためにこの地を賜りました。
海抜1千㍍の山上に広がるこのお山は、東西約6㌔南北約3㌔の盆地で周囲を内八葉外八葉の峰々に囲まれ、蓮(はす)の華のような地形をなしております。
10世紀後期頃から大師入定信仰が生れ、高野山を弥勒浄土(みろくじょうど)とする信仰や阿弥陀浄土(あみだじょうど)とする信仰と合いまって、高野山は、一般民衆の信仰と尊敬を集め、千年以上も前から、現在に至るまで多くの人々のお参りが絶えません。
西暦2004年(平成16年)7月には「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコの世界文化遺産に登録され、日本国内はもとより世界各国の方々も数多く訪れております。またミシュラン旅ガイド日本版において、高野山は三つ星を獲得し、優れた観光地として最高の評価を受けています。
一般的に「お大師さま」の名称で親しまれている弘法大師は、光仁天皇の西暦774年(宝亀5年)讃岐の国(現在の香川県)に生誕しました。父は佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀家(あとうけ)の出身で、お大師さまの幼名は真魚(まお)といいます。仏教に対する信仰心の厚い家庭であったといわれています。
15才の時、伯父の文学博士阿刀大足(あとうおおたり)に従って上京し、漢学や史学を学び、18才の時に都の大学の明経科(現在の文学部)に入って、中国の古典や儒教の学習を積まれました。 大師は、漢詩についてすぐれた才能があり、これはこの時代に一層磨きをかけたということです。
当時の大学は儒教中心の官吏養成機関で、大師の苦しみ悩む人々を救いたいという思いとは異なるものでした。そうした折、奈良の勤操大徳(ごんそうだいとく)から仏教の教えを学び、虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)の法を授けられたことが、大師の大きな転身の端緒となり、ついに西暦793年(延暦12年)19歳にて和泉国槇尾山寺で、勤操大徳を師として出家されました。僧名は教海(きょうかい)、後に如空(にょくう)と改められ、さらに22歳の時、東大寺戒壇院で具足戒を授かり空海(くうかい)と改めました。
出家後は勤操大徳のおられる大安寺にてあらゆる経典を読破されましたが、心に満足を与えてくれるものがありませんでした。その後、久米寺にて大日経を感得され、研究に専念されましたが、お経の中には梵語(インドの古語)があり、理解しにくかった為、唐に渡る決心をされました。勤操大徳の並々ならぬ尽力で西暦804年(延暦23年)7月6日大師は藤原葛野麿(かどのまろ)を大使とする遣唐使の第一船に便乗して肥前松浦郡田の浦港を出発、8月10日福州の浜に漂着、その年の12月に唐の都長安に到着されました。この都で第七祖青龍寺恵果阿闍梨(けいかあじゃり)の門に入られ、阿闍梨は僅か8ヶ月の間に密教の大法を授け『遍照金剛』の名を与え、大師を第八祖にされました。そして2年後の西暦806年(大同元年)に帰国し、真言密教を各地に広められました。
西暦812年(弘仁3年)11月15日には高雄山寺にて金剛界結縁潅頂を開壇しました。入壇者には伝教大師も含まれており、弘法大師の仏教界、朝廷への評価を一気に高めました。また、弘法大師の元に、多くの弟子があつまりました。このころに真言宗が成立したと言われています。
西暦816年(弘仁7年)、嵯峨天皇より高野山を賜わり、西暦817年(弘仁8年)には諸弟子が工人等多数を伴って登山し開創に着手され、これが高野山金剛峯寺のはじめといわれています。
西暦821年(弘仁12年)5月、朝廷は、弘法大師を讃岐国にある万濃池(まんのうのいけ)の修築別当に任ぜられました。弘法大師は、讃岐国出身で、中国留学によって、先進技術文明を見聞し、土木事業についての高度の知識と技術を身につけておられたと言われ、大きなため池を修復するという難工事を3ヶ月で見事に完成させました。
西暦822年(弘仁13年)2月、東大寺に潅頂道場(真言院)を建立し、高雄山寺において、鎮護国家の為に仁王経法(にんのうきょうほう)を修し、平城上皇に密教独特の戒である三昧耶戒を授け、潅頂し、翌(弘仁14年)には、嵯峨天皇にも潅頂を授けたという記録が残っています。
西暦823年(弘仁14年)正月、朝廷より弘法大師に東寺を賜りました。それ以後、真言宗の根本道場として、社会活動の拠点としておりました。弟子の僧50名を常住させ、他宗の僧がここにまざり住む事を禁じ、真言密教の研究に専念するようにとの官符が下されています。
西暦824年(天長元年)2月、大師は勅命によって神泉苑(しんぜんえん)において雨をいのり、翌月、少僧都に任ぜられ、同(天長4年)5月には内裏において祈雨法を修し、大僧都に任ぜられました。
弘法大師は、多忙な生活の中で多くの書物を著されていきました。広法二種類の「付法伝」は、大日如来から恵果和尚までの正統な密教を受け継ぎ伝えた祖師たちの系譜とその伝説をあきらかにしています。真言の教えの理論的な根拠を明らかにした「即身成仏義」「声字実相義(しょうじじっそうぎ)」「吽字義(うんじぎ)」の真言宗の三部書等を著しています。他にも、「文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)」「文筆眼心抄(ぶんぴつがんじんしょう)」「篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)」「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」や、最も晩年の著作「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」等もあります。
西暦828年(天長5年)には、東寺の東隣に綜芸種知院(しゅげいしゅちいん)という学校を開き、貴賎・貧富の区別によって入学制限を設けない広く門戸の開かれた学校でした。 ですが、経済的と人材不足の理由で20年で廃せられました。
造営が続いているさなか、大師は62歳の西暦835年(承和2年)3月21日に入定され、即身成仏をとげられました。その後、西暦921年(延喜21年)10月27日醍醐天皇より“弘法大師”の諡号を賜りました。真言宗の修行の道場、高野山においては、お大師様はいまも、私たちの側にいつも一緒にいてくださいます。四国お遍路においては、巡拝者が持つ金剛杖には同行二人という意味があり、お大師さまは足になり、心の支えとなってお遍路さんとともに歩んで下さっています。
一般社団法人高野山宿坊協会・有限会社高野山参詣講
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